〈匠〉おひーさんの農園チーノ
神山の土地で見つけた、“楽”という豊かさ
― おひーさんの農園チーノが育てているもの ―
徳島県神山町。
山あいの集落「地野(ちの)」に、「おひーさんの農園チーノ」はあります。この場所へやってきたのは14年前。今の家に出会ったとき、購入の条件はひとつだけでした。
「畑を活かすこと」。
それは、家を選ぶというより、“この土地で生きていく”ことを選ぶ感覚に近かったと言います。もともと農家の家系ではなく、農業経験もありませんでした。研修を受けたり、誰かに師事したりする道もあった中で、選んだのは「土地に教わる」という方法でした。
草の生え方。
虫の動き。
土の湿り気。
季節の移り変わり。
畑に立ちながら、その土地で何が心地よく育つのかを見続けてきました。
「特別なことをするより、“よく見る”ことを大切にしています」。
その言葉が、とても印象的でした。
おひーさんの農園チーノでは、農薬や化学肥料を使っていません。けれど、それを強いこだわりとして掲げているわけでもありません。「使わない」というより、自然と選択肢に入ってこなかった。そんな距離感で語られます。
刈った草を畝に戻し、畑から出たものをまた土へ返していく。無理に何かを足すのではなく、土地の流れを観察しながら整えていく。その積み重ねが、今の畑の景色になっています。
育てているのは、にんにくやごぼう、生姜、大根、里芋などの根菜類。ハーブも、珍しさより「ここで無理なく育ち、自分たちも自然に使い続けられるもの」が残っていったそうです。

14年という時間を経て、畑に残っているのは、“この土地と一緒に暮らせるもの”ばかり。
そこには、「効率」や「大量生産」とは少し違う時間が流れています。
そんなチーノさんが、大切にしている言葉があります。それは、「楽」であること。派手な喜びではなく、どこかに無理がない状態。自分たちも楽しく向き合えて、畑の生きものたちも無理なく存在できて、食べる人も心地よく料理を楽しめること。
「その“楽”の積み重ねが、結果として体や環境への負担を少なくしているのかもしれません」。

その考え方は、加工品づくりにもつながっています。以前は野菜を生鮮で販売していましたが、次第に「旬の一番おいしい瞬間と、販売のタイミングにズレがある」と感じるようになったそうです。
“いちばん美味しい瞬間を、どう届けるか”。
その答えのひとつが、加工でした。
現在は、自社工房で調味料づくりも行っています。人気の「すだち塩 Sudaccio」や「すだちコイコイ」も、そんな試行錯誤の中から生まれました。特に印象的なのは、すだちへのまなざしです。一般的には料理の脇役として使われることが多いすだち。けれどチーノさんは、その奥ゆかしさに惹かれていったと言います。強く主張しないけれど、芯に力強い酸味を持っている。季節によって香りや甘みも変わり、その瞬間ごとの表情がある。だからこそ、「すだちを主役にできないか」と考えるようになりました。調味料を作るときも、何かを加えるというより、“素材が持っているものをどう引き出せるか”を大切にしています。

料理に少し加えるだけで、景色が変わる。
そんな感覚を楽しんでほしいと話します。
それは単なる“食品づくり”ではなく、この土地で感じた豊かさを、食べる体験として手渡しているようにも感じました。
神山という土地について尋ねると、「条件」では説明できない魅力があると言います。引っ越してきた当初、近所の人から「秋野菜、間に合わなくなるよ」と声をかけられたこと。誰かが特別に何かを語るわけではないけれど、日々の中で自然に手をかけ合っていること。そうした空気が、この町にはあるそうです。
多くを語らなくても、どこかで互いを気にかけている。その“触れるか触れないかくらいの距離感”が心地いい、と。「おひーさん」は、神山の阿波弁で“お日様”のこと。誰にでも平等に降り注ぐ太陽のように、食卓や暮らしの中で、そっと心地よく存在できるものを届けたい。そんな想いが、この名前には込められています。
小さくても、ちゃんと続いていくこと。土地に無理をさせず、自分たちも無理をしないこと。おひーさんの農園チーノが育てているのは、野菜や調味料だけではなく、そんな“暮らしの感覚”なのかもしれません。
今後の展望について
おひーさんの農園チーノがこれから目指しているのは、「大きく広げること」よりも、“心地よく続けられる形を整えていくこと”です。現在は、フランスを中心にヨーロッパへの輸出にも挑戦しています。輸出EXPOへの出展をきっかけに、スペインやアメリカ、シンガポールなど、海外からも声が届くようになりました。
ただ、量を増やすことが目的ではありません。少量でも長く付き合える相手と、丁寧に関係を築いていきたい。日本ならではの調味料として、海外のシェフや食文化の中に少しずつ入り込んでいけたら、と考えています。
また、農園と工房の環境づくりも、これからの大きなテーマです。
畑で育て、加工し、パッケージし、届ける。
その流れを、自分たちにとっても無理のない形へ整えていくこと。
鹿柵を設置したり、工房を少しずつ改良したりと、日々環境を積み重ねながら、「次の世代にも渡していける場所」にしていきたいと話します。
さらに、以前営んでいた月曜限定の「くまカリー」も、月1回ほどのペースで再開を予定。調味料を販売するだけでなく、実際に“食べる体験”として届けられる場も、少しずつ戻していきたいそうです。
農業なのか、加工業なのか。そうした枠組みに縛られるのではなく、この土地で感じた豊かさを、食や暮らしを通して届けていくこと。それが、おひーさんの農園チーノのこれから目指している姿です。

